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ドライブ 2013.11.18 (月)

皆さん大正解です

ここは、岩村城(いわむらじょう)

岐阜県恵那市岩村町にある中世の山城跡で

江戸時代には岩村藩の藩庁でありました

付近は霧が多く発生するため

別名・霧ヶ城とも呼ばれています

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昇竜の井戸

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本丸跡から望む出丸跡

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本丸が諸藩の居城中

最も高い海抜717mに位置してるため

日本三大山城の一つに数えられています



相方がここを選んだ理由のひとつに

ここが女城主の城と言うのもあります





☆「女城主の城」と言うのは?

(興味のある方だけ読んでください

ながながと書いてありますので。。。)



城主遠山景任を亡くし未亡人となっていた修理夫人(女城主)が

織田信長の五男御坊丸を養子として

実質的に岩村城を守っていました

時は天正元年、当時、岩村城は織田と武田の力の均衡する位置にあり

武田信玄の家臣秋山信友率いる武田軍が岩村城を攻撃しました

しかし、要害硬固な山城である岩村城は

そう簡単に落城するはずがありませんでした

いかにして攻めても落城しない岩村城を

どうしたら自軍のものにすることができるのかと

秋山は様々な策を練りました

この間、城は落ちずとも、城下町は全く異なる場所にありました

武田軍により大きな被害を受け

このことに女城主は心を痛めていました

信友は数ある策のなかからひとつの策略を密使に託し

岩村城中に送り込みました

この時、秋山は驚くべき提案を女城主にしたのです

“信友と結婚して無事に城を明渡

御坊丸を養子として家督を譲ることとしてはどうか” と

女城主は、苦渋の決断を下しました

領民と家臣を守ることを条件に

この最も屈辱的な政略結婚の道を選んだのです

こうして岩村城は無血開城されました



しかし、この大きな決断を下した女城主は

ある意味、信友の裏切りにあってしまいます

信友は信長の叔母と結婚した事を信玄に嫌われるのを悟り

御坊丸を甲府に人質として送ってしまいました

時に御坊丸は七歳でした

このことを伝え聞いた信長は激怒しましたが

その頃は武田の勢が強く、かつ近畿攻略に追われていたので

そのまま放任せざるをえませんでした

しかし、織田信長は、岩村城を秋山信友に奪われたのを無念とし

その周辺の小城に加勢を送り

ひそかに岩村城の奪還の期をうかがっていました



天正3年3月、長篠の戦に武田勝頼の軍が敗戦したことにより

武田と織田の勢力の均衡が逆転

信長はこの機を逸せず、同年6月

岩村城を攻略すべく嫡子信忠を大将とする軍勢を

岩村城攻略に送り込みました

信忠の大軍は数日間激しく攻め立てましたが

岩村城兵も命を惜しまず防戦した為容易に攻略はならず

信忠は戦法を変更し持久戦をとりました



こうして6月から10月に至るまで

数ヶ月の時が経ってしまいました

さすがに城中も次第に糧が乏しくなり

兵卒も疲れをみせはじめ

武田の応援も無くなり

ついに難攻不落の岩村城は陥落してしまいました



信長は、秋山信友をはじめ女城主(御坊丸を人質としたことを憎まれていた)らを

岩村城外の大将陣(最近の説では岐阜の長良川)で

逆磔(さかさはりつけ)にして殺してしまいました

この時夫人は、声をあげて泣き悲しみ



「我れ女の弱さの為にかくなりしも

現在の叔母をかかる非道の処置をなすはかならずや因果の報いを受けん」



と絶叫しつつ果てたといいます

織田信長が本能寺で殺されるのは

それから七年後のことでした




“いわむら”が“女城主の里”と呼ばれるには

自らをかえりみず、領民や家臣を守った心優しく凛とした

「女城主」の伝説があったからにほかありません。




猫ドンVSカピパラ

睨めっこ対決

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睨めっこしましょう

睨めっこしましょう

笑ったら負けよ

あっぷっぷ!!



勝敗は?







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